霊感に導かれて、会津から江戸へ(3)

<古文書が読めない…>

20ページもの古文書を前に、途方に暮れていると、目の前の席に座っていた初老のおじさんを目が合う!
「こんにちは! ご先祖様の系譜を調べに来たんです」
と、
「どれどれ」
と、古文書を手にとって音読開始!
えええ! 読めるんですか!
「これは簡単な方だよ」
えええ、大先生だ! ラッキーなこともあるものですね。

ということで、分析開始。

<出身地不詳:だが武士の身分>

さて、目録の「安永9年に召し抱えられた時の記録」には、出身地も本姓も不詳とあります。つまり、会津生まれではなく、財政再建が急務の会津藩にどこからか雇われた。
大先生によると、この時代に、外から来て武士の身分で登用される場合、江戸や殿様の出身地の旗本(いわゆる殿様と呼ばれる身分)の次男三男坊というのが定番だそうです。

なるほど、確かに身元が怪しい人間が武士として雇われる訳がないですね。しかも、会津藩は、徳川3代将軍の実弟と認められた親藩大名です。相当な家柄でないと登用されないわけですよ。

「会津藩に雇われる、外からの武士階級ってのはね、旗本の子息っていうのが定番でね」

なるほど、大先生曰く、金澤という名字は少なくはないが、旗本出身の金澤に絞ると、それほど多くないんだって。

「金澤さんか、これはね、「かなざわ」と読むか「かねざわ」と読むかで、歴史が違うんだよ!」
えええ、そうなの?
「確か、旗本で金澤っていうと、今の横浜の金沢八景の金澤家くらいじゃなかったかなぁ」

えええ、なんでそんなに詳しいの?

「ぼくはね、中世が専門でね、その時代だとなんとなく分かるんだよ」

そこで、日本の氏の本を探し始める。すると、
「江馬小四郎義時が〜」
と、大先生、ここまで読んで、
「あ、これは北条義時のことね。その息子の五郎実泰が〜〜」
と、現在の金沢文庫の基礎を作った金澤家の興りを解説。
つまり、今の横浜市金沢区に、実泰が武蔵国の国守になって金澤郷を作ったのが始まり。この家は北条氏の親戚なので、有力御家人(旗本)となり、うんぬんかんぬん。

あらあら、僕はニコニコしているだけで、西暦1100年くらいまで遡っちゃった!

さて、この金澤家が、ぼくの先祖なのか? それは、我が一族(母方)の霊感によって補完される。

(つづく)

 

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