不安の鬼は心の中にいる

薬物問題と作品、犯罪学的に考えるのココロだ

坂本龍一さんは大好きだし、電気グルーヴも好き。しかし、どうだろう、薬物犯罪者の作品は非公開にするべきか、作品自体はそのままでいいのか。ちょっと犯罪学(&犯罪心理学)的に考えてみた。

犯罪学的には、非公開にするべき

音楽の世界では、薬物で曲を作るというのが昔からよくあって、時代の変革期には素晴らしい作品が生まれることが少なからずあるようだ。そんな意味で、作品本位で考えると、まぁ、薬物は必要悪みたいな感じなのかなぁ、と思ったりする。
また、映画のように出演が多い創作物では、一人一人の素行を完璧にチェックして制作するわけにも行かないかもしれない。

そこで、犯罪学的に考察すことにする。ポイントはいくつかあって、まず、薬物を使った本人に対するものでは、反社会的な行動、つまり犯罪を構成する故意の行為なのだから、本人は罰するべきであり、その犯罪行為の内容に応じた刑罰を科すべきだ。

一方、作品に関してはどうか。犯罪学・刑事政策的に考えると、薬物の力で作ったであろう作品に関しては、非公開にするべきだと言える。
なぜか?
もし、薬物の力で何億円も儲かる作品ができたり、人気を集める作品ができるということになれば、「じゃあ、俺も」と後を追う人間が出てくることが、容易に想像できるし、事実、いい作品を生み出すために薬に手を出したというアーティストの証言は枚挙に厭わない。
つまり、社会安全の観点からすると、薬によっていい作品やいい演技ができるということになると、これほど危険な状態はないと言える。犯罪学的に言えば「一般予防効果(刑罰を科すことで社会を安全にする)」の必要性からも、作品自体を非公開にする必要がある。

スポーツにおけるドーピングのひどいやつだ

芸術活動における薬物依存は、スポーツで薬物を使って新記録を出すのと同じで、ドーピングだ。卑怯なやり口なのだ。
先ほど一般予防効果の話をしたが、作品を生むためなら薬物もいいじゃないか、ということでは、健全な社会は保てないのだ。
ドーピングした選手がスポーツ界から追放されるのと同じように、音楽や映像などのコンテンツ業界も、当然の事ながらドーピングをした人間は追放するべきだ。
にも関わらず、音楽業界は、なぜか薬に寛容である。坂本龍一氏に至ってまで、そんな発言なのは、非常に悲しい。

薬物使用中の作品に限り非公開に

さて、もう少し詳細に考えると、スポーツでもドーピングで出た記録は向こうになる。そして、ドーピングの内容によっては、選手が復帰するチャンスを用意している。
音楽や映像でも、同じように、薬物を使っていた期間の作品は非公開、使っていない時期は公開にしてみてはどうか。
使用した本人の復帰に関しては、法律学的には、刑期を終えて出所した(もしくは執行猶予期間、保護観察期間が終了した)時に復帰を認めてるかどうかを判断してはどうだろうか。

作品にも罪がある

坂本龍一氏は「作品には罪がない」と言い切っているが、いや、薬物の力で作られた作品は、さらなる薬物を容認するのと同じ効果があって、真似して、薬物で作品を作る人間を生みかねない。つまり、「作品にも罪がある」のだ。

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