書き始めた新ジャンルの一節をちょいと紹介しておきます。
自分と他人のフィルター
他人に起きたことと、自分に起きたことを同じように定量できるだろうか? これは非常に難しい。他人に起きた事は客観的に見られるのに、なぜか自分に起きた事にはある種のフィルターがかかってしまう。なぜだろうか?
この事は当たり前のように思っている。しかし、よく考えてみると不思議である。例えば誰かの親が死ぬ、そして自分の親が死ぬ。同じように感じられないのはなぜだろうか?
心は内向きと外向きがあるのか
一般論として、他人事と自分の事には大きな隔たりがある。それを定量的に考える人はあまり見かけない。では、あえて定量的に考えてみようじゃないか。
まず、外から入っている情報とは何か。五感を通して脳に入る。入ってくる情報量が同じでも、人によってそれを認知できる量が異なることは容易に想像できるだろう。つまり、入ってくる量に対して受け入れる量が異なるわけだ。同じ人間でも、体調や気分、入ってくる情報の性質によって受け入れ方に差が生じる。その現象を分解整理してみた。
- 入ってくる量を「入量」としよう。
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受け入れた量を「感量」としておこう。
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その感量に対して、頭の中で色々な思いが生じる。その量を「思量」としよう。
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その思量に対して、何か行動したり、反応したりするが、それを「出量」としよう。
さて、他人を観察する場合、他人からは1と4しか見えない。しかし、これだけでも定量化できる。さらに、「入量」と「出量」の大きさだけでなく、2つの現象の間の時間量がある。ここで他人を観察して分かる事を書いておく。
パターン①「入量>出量」
パターン②「入量<出量」
お分かりだろうか? 具体的に言えば、会話の中で、沢山の話をしないと相手の返答が来ないのがパターン①だ。逆に、1言えば10帰ってくるのがパターン②だ。これを数学的に読み解くとどうなるだろうか?
微分型と積分型の人間がいる
そう、お分かりだろう。パターン①は、多くの情報を集めないと行動しない人間で、脳が積分型の回路になっているように見える。一方のパターン②は会話の微分量に応じて出量が変化する。つまり、微分型の人間だ。
さらに、入量から出量までのタイムラグをみると、すぐに反応するタイプとゆっくり反応するタイプがある。頭の回転の良し悪しと言って良いだろう。
実は、この分類は櫻井知育研究所の櫻井先生が提唱しているものだ。2・3歳児の観察で、上記の分類に気づいたとのこと。つまり、人間は生まれながらに脳の反応の仕方が違うらしいのだ。
自分の中でさらに定量化してみる
さて、人間には積分型と微分型の人間がいることがわかった。さて、最初の定義を思い返してみる。入量に対して認知できた量である「感量」があった。
「入量=感量」であれば理想的だが、実際には「入量>感量」だ。つまり、人間は五感に入ったものを全て認識できるわけではない。では、何%が受け入れられるのか。これも個人差があり、年齢によるバイアスもかかるだろう。しかし、ここまではかなり物理的な問題だと思える。要するに、認知する脳の性能の問題だ。
さて、問題は感量に対して、それをどう考えるのかという「思量」だ。どんなパターンが考えられるだろうか?
パターン③「感量>思量」
パターン④「感量<思量」
パターン③は、頭に入ってきた情報量に対して、頭の中で考える情報量が少ないパターンだ。