世の中には様々な創作がありますね。
僕は職業として、様々な創作活動をやっています。これは幸せなこともあるし、つらいこともあります。まぁ、贅沢な悩みですね。
創作で食べて行くのは大変なことですが、いくつかのポイントがあります。
創作産業は、大企業が胴元になっている。
創作活動は、広告が大きな土俵だ。
創作活動は、ファンが付くことが目標だ。
創作でお金をもらうには、大企業、すなわち刷版社やテレビ局などと付き合わなければならないということを意味します。
しかし、出版社もテレビ局も、まぁ、めんどうな世界です。権力者のあつまりなので、まぁ、面倒。それに付き合えないと、お金はもらえません。日大アメフト部の酷い指導内容が世の中に見えてきましたが、テレビ局も出版社も、まぁ、似たような物です。
もう1つの創作活動は広告です。こちらも大企業が牛耳っている部分もありますが、もう少しオープンです。自由もあります。ただし、他人を宣伝するわけですから、作った物が他人の物になるということでもあります。でも、作品には自分が繁栄されているので、作品が増えるに従って、自分の分身が世の中の市民権を得るように、「あれもあなたの作品ですよね」と後から認知されていきます。そうなると、創作の自由度も増えていきます。
でも、結局、何を作っても、自分のファンが増えないことには、創作は虚しいものになります。
文章とという創作について
さて、世の中は本を読む人が減ってしまって、文章という創作活動が難しくなっています。舞台演劇みたいに、特定の人しか参加しない世界に近づいているかもしれません。
でも、文章の良さというのは、表現に制約がなということです。映像は表現する内容によってお金のかかり方が違います。でも、文章は例え大宇宙を舞台にしてもアパートを舞台にしても、かかるお金は一緒です。
この利点を使わないと、文章で表現する意味がないのかもしれません。
もちろん、世の中には文章好きはいて、この表現がいいとかなんとか、それを価値にするジャンルも確かにあります。つまり、何を書くかということよりもどう書くかというジャンルで、文学賞みたいなものです。でも、それは、実は前述の大企業のテリトリーなんです。つまり、作家は俺たち編集者の手足と一緒で、俺たちの言うとおりのものを書いていればいいんだ! っていう感じです。日大アメフト部の監督と選手の関係みたいですね。監督が選手を守らなかったの同じように、作家の生活を守ろうという編集者は皆無です。もちろん、そういう編集者がいることは事実ですが、「売れなきゃ意味がない、利益が出なけりゃ意味がない」という大組織の理屈の上には、明日の作家より、今の文字職人、ということになっちゃう。
まぁ、独り言っすね。
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