放送大学で微積分の入門講座を放送しているんだ。
導関数の求め方、使い方を解説している。
35年ぶりくらいかなぁ。記憶の再確認ができた。
微積分というのが、実は文系理系の最後の分岐点かもしれない。
つまり、微積分を本当の意味で理解できるかどうかのハードルがあって、これを理解できずに受験対応で暗記しちゃうと、もう科学者としてはダメなんだと思うんだな。(化学は別ね)
そういう意味で高校時代の友人を見てみると、確かに受験で良い大学へ入っても普通のサラリーマンになっている。逆に微積分なんて簡単だよ、と言っていた奴は大学なんて辞めちゃってIT企業でバリバリやっていたりする。
大学教育をみると、まぁ、化学などの特別な機材を必要とする理系科目は別にして、理論物理学みたいなものは、道具は紙だけで良いし、情報はネットにいくらでもある訳だから、大学の先生になるんじゃなければ大学なんて関係ない訳ですな。
まぁ、アインシュタインさんがその典型ですね。
微積分が理解できなければ落伍者
さて、そういう意味で微積分を人生のハードルと捉えて、人種を二分した短編小説でも書きたいなぁ。
微積分が理解できない人間を下級階層とする訳です。ひどい話ですね。でも、実社会でも良い大学を出なければ落伍者だと思っている人もいるわけです。人間は自分に都合がいい尺度で他人を計っています。そこに権力や経済が結びつくと差別とか特権階級が生まれます。
つまり、微積分が分かるかどうかという尺度は、今れた家柄や国で貧富の差が決まることに比べれば非常に民主的かもしれません。選別の尺度が微積分にしているだけで、50m走のタイムで7秒を切れない人間は下層階級でもいいのです。
ここに努力と生まれ持ったものという2つの概念が対立します。
努力次第で手に入るものは平等だといいます。でも、それでも生まれ持ったものが影響しています。
現代社会は、表面上は人間は努力次第だ、と言いますが、実際には生まれ持ったものの影響の方がはるかに大きいのですね。
さて、僕がみなさんを見るときに、微積分はできる? と聞くことにします。
うふふ。