作品を作る上で考えていること

世の中は、およそ『善』か『悪』かという価値で二分できると思うんだ。
善悪を相対的なものと考えるのか、絶対的なものと考えるのかは難しい。
でも、考え方を変えれば、まず、絶対的な善があるという前提で物語を作り始めるとどうなるかと思えばいいんだよね。

インド哲学で分析してみよう

しかし、世の中には、そもそも善な人と悪な人がいると思っているんだ。
インド哲学では、サットヴァ(徳を知る性質)とラジャス(物質的な利を知る性質)、そしてタマス(善悪が分からず、流される性質)の組み合わせで人間の性格が決まると分析されているんだ。

サットヴァは、いわゆる賢者とか聖者という人たち。
ラジャスは、経営者だとか武将だとか芸能人とか、つまり実利を追求する人たちだ。
タマスは、自ら何かを追求することはなく、流される人たち、規則に従うだけの人たち、流行に従う人たちで、圧倒的多数じゃないかな。

別の言い方をすると、サットヴァは精神的、ラジャスは物質的、タマスはどちらでもない(どっちでもいい)。

今の時代はラジャスが好まれるので、どうでもいい人たち、つまりタマスな人たちはラジャスの元に集まりやすい。
つまり、今の時代は徳とか善という話はぜんぜん無駄で、ラジャス的な『儲かる』『勝つ』『自分だけが得する』『綺麗事より利益』『ビジネスで負ければ露頭に迷うのは仕方なし』なんて価値観が優先される。

書くとすればラジャス的なことを書けばいい

ところが、人間は元々、3つのどれかの性質に支配されているので、例えばサットヴァな人がラジャス的なことを書いてもダメだし、タマスなのに物書きをしようとしても無駄。

唯一、もともとラジャスな人が本を書けば、今の時代は『売れる』ということになる。その中身には『徳』も『善』もない。『得する』『儲かる』『楽しい』『優越感』『感情的』という世界観なのだ。

さて、ここでサットヴァな人たちはどうしたらいいのか。これはブッダの時代から同じで、自らの内面を高めるしかない。そこで見えたものをタマス向けに書けばいいのだ。それが聖典と呼ばれたり、叙事詩と呼ばれたり、お経と呼ばれたりする。
しかし、これまで存在する聖典や経典を気にしたり参考にしたりしたくなるのは、タマス的な性質の表れだ。もしくは「売れたい」と思うラジャス的な考え方だ。
どこまで純粋にサットヴァに徹する事ができるかが重要だ。

つまり、物を書くというのは、誰かに見せる以上は物質的である。ここのバランスが難しいのだ。分かるかなぁ。

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