偶然か必然か

昨日は、遠藤周作さんの『女の一生』を読み始めたと書きましたね。
『女の一生』というのは、明治維新前後に行われたキリシタン弾圧について書かれた本です。時代が明治に変わってから、ひどい拷問が行われたんですね。

そして、明治維新まで三百年ちかく隠れていた島原のキリシタンが、開国とともに出てくるのですが、そこで捕まってしまうです。

その当時、フランスから赴任してきた若い神父が、江戸末期の島原に来るのですが、キリシタンはもういないと先輩に言われながらも、不屈の精神で探し続ける。すると、その思いが通じたのか、隠れキリシタンが出てくる。三百年ぶりに本物のキリスト教に隠れキリシタンが出会う場面で、ぼくも涙を止めることができなかった、というのが昨日の話です。

ぼくの一族には霊能力者が大勢いて、その叔母から、
「あなたの背中にクロスの烙印(十字架の焼印)が見える」
「近くの丘の上に教会があるから、行きなさい」
などと言われていたので、キリスト教にちょっと興味が湧き始めたところでした。

さて、遠藤周作さんの作品を読みながら泣けてきたので、ちょっと休憩がてら、仕事を始めました。木更津の大工さんのホームページの仕上げです。というか、ほぼ完成していて、ちょっと手直しして、その会社の契約サーバーにアップロードするという作業です。

もらった契約情報からアップロード作業をしたのですが、ちょっと変わった設定のサーバーで、FTPソフトというちょっと専門的なツールで手作業をしなければならず、ちょっと気合が入りました。

さて、翌朝である本日、その大工さんから電話があって、
「すごいよ! いきなり問い合わせが来て、すぐに仕事になりそうだよ!」
と大喜び。

僕は、
「ああ、マリア様!」
と、手を合わせました。
なぜか? わかりません。

偶然でしょうか? 必然でしょうか?

キリスト教だ!

【本日の桜風さん:不思議体験続行中】

本日は、早朝のセミナーにて、我が一族の不思議体験を中心にした出来事と、それを経営につなげる(どんなこったい!)話をさせていただきましたよ。

ここによく書きますが、長州藩の重臣であったご先祖様のお墓を見つけるまでエピソードに始まり、人間が過去の人たち(主に先祖)の影響の中で生きるということがどういうことかを考えるセミナーとさせていただきました。

ここまでは、定番の内容(毎度聞かされている人はごめんね)。

本日は、それがさらに深みを帯びて来ました。

セミナーの前に、朝のセミナーの大先輩である重鎮とセミナー内容に関する雑談をしていると、この先輩が、キリシタン弾圧の歴史に非常に精通していて、津和野のキリシタン弾圧もよくご存知だったのです。

明治維新の前後で島原から津和野のキリシタン弾圧というのが行われたのですが、そのあたりの歴史をいろいろお教えいただいたのです。

ちょっと桜風さんの摩訶不思議体験を思い出してみますと、去年のお正月すぎ、叔母の49日の法事があり津和野・萩へ行ったのですが、

1:その前の日には、我が一族の陰陽師2号の叔父が一晩中、津和野のキリシタン弾圧の話をしていて、

2:その翌日の法事の後の(霊的)反省会では陰陽師1号である叔母から、
「桜風ちゃんの背中にはクロスの烙印(十字架の焼印)が見えるのよね」

と言われておりました。

3:そして、先日ですが、今年のGWにはその津和野のキリシタン弾圧の歴史を探りに津和野へ行くと宣言しておりましたよね。

そして、本日。講話者としての僕のプロフィールを見た先輩の方から「津和野のご出身ですか。あそこはキリシタン弾圧があったんだよね」
と、先に声を変えて来てくださったのです。

そして、島原での弾圧(明治期)の話など、また、その島原へ行ってきた時の話などご教授いただきました。

そして、私の講話では、私が母方の先祖だけでなく父方の先祖を見つけるのも、偶然とは思えない出会いで非常に簡単に進んだこと。また、本日、先輩より情報をいただけたの、さらに自分の背中にあるクロスの烙印の意味について、わかるのではないかと思いました。

<キリスト教との出会い>
そして、その先輩が勧めてくださった本が、
遠藤周作さんの『おんなの一生(一・二)』
です。

それを今の今まで、パーキングエリアに駐車した軽キャンピングカーで読書していました。

秀吉によってキリシタン弾圧が始まり、江戸期の徳川幕府でもご法度となり二〇〇年以上も途絶えたと思われていたキリシタンが、明治維新直前に島原に外国人向けとして造られた教会に現れるという話です。

その二〇〇年もの期間、日本人のキリシタンの子孫たちは、正式に洗礼されることもなく、ただ、村の中で口伝えに信仰を守ってきたのです。その間、毎年正月には踏み絵が行われてきたのですが、それもやりつつ、二〇〇年以上も信仰を受け継ぐ人たちがいたのです。

開国間近に赴任してきた若い神父も、きっとどこかに生き残りの子孫がいるはずという信念を捨てずに、先輩神父に「もう日本には一人もキリシタンはいないぞ」と言われながらも、探し続けます。

そのキリシタンの末裔と、若い神父が出会う場面では、僕自身も涙が止まりませんでした。
FBの書き込みでは、僕はキリスト教については「よくわからん」というのと、東インド会社とともにアジアを植民地支配してきたという2点で、軽蔑していました。

この本の中で、赴任してきた若い神父は、日本人が「キリシタン」という言葉に強い拒否反応を示すのを目の当たりにします。
「しかし、我々がアジアにしてきたことを考えれば、それも当たり前で、むしろ我々の方が反省しなければならない」
と先輩に言う場面があります。

僕は、この言葉だけで十分、救われた気がしました。
もちろん、このセリフは遠藤周作さんが創作した言葉かもしれません。しかし、クリスチャンであった遠藤さんの言葉ですから、それは若い神父の言葉として、僕には聞こえました。

さて、遠藤周作さんですが、僕の母校の先輩です。
理科系で、本が読めない軽い障害のナベちゃんは、大学に入った年に頑張って小説を読んでみようと買ってみたのが、遠藤周作さんでした。でも、数ページで玉砕。今から三十年前です。

そのトラウマもあって、本日ご紹介された本は読めるだろうかと心配したのですが、いえいえい、どんどん文字が飛び込んでくる。

まだまだ、頭のあたりを読んでいる段階です。
さらに、読み進めます。

霊能力の本を書いているんだ。

愛犬が亡くなって、いろいろあったんだ。
先祖探しで、いろいろあったんだ。
軽くその体験を書こうとしていたんだ。
2万字くらいの薄い本にしようと思っていたんだ。
そうしたら、もう6万字を超えてしまったんだ。
混沌とした本になってしまったんだ。