脚本と小説と実用書と

Kindle向けに本を書き始めて丸3年です。
当初の計画では、すでに30作品を出版し終えて、印税ウハウハ生活だったのですが、書けたのは予定の3分の1程度。

さて、昨日は仕事で脚本を書いていたのですが、実用と童話の中間くらいの作品なので、かなりスラスラ書けましたね。
文字校正も3カ所くらいで、かなり完成度が高い台本だなぁ。

自治体の入札コンペに出すものです。
出来レースじゃなければ、いい線に行くはず、経験則ではそう思います。

さて、このところ、難解な書物を如何に楽に読み解くのかという研究をしています。
宗教の歴史や思想の違いを比較するために、多くの専門書を読んでいるのですが、いい読み方を発見しました。

その読み方については、今、本を書いています。
かなり素晴らしい読み方ノウハウですよ!

実は、紙の本を使って、難解な書物を超短時間に読み解いて、その読書から書籍まで書けるようにしようという、ちょっと欲張った内容です。

乞うご期待!

執筆ツールポメラDM100のゴム足を取り替えた

キングジムのポメラDM100を愛用しているのですが、ゴム足が減ってきていて、しかも1個がなくなってしまいました。

キングジムのサイトに行くと、あら、普通に足が買えるのね。

DM100のゴム足は二種類あって、手前の丸長の3個のゴム足と、液晶パネルの根元のL字の2個の合計5個です。1個100円くらかな。

最初に適当に買ったらL字で、あれれ、これじゃない。
ということでさらに買い足し。丸とLと各5個ずつ購入しておきました。

結局、5個全部を新品に取り替えました。
気分爽快。

 

霊感に導かれて、会津から江戸へ(4)

<会津から江戸へ>

さて、僕のご先祖様:金澤家ですが、会津出身ではなく、どこかの旗本の出だろうということになりました。もちろん、ぜんぜん関係なく、なんとなく金澤という姓を名乗っただけかもしれません。記録には「不詳」としか書いていないからです。

もう少し目録を読んでみると

「菩提寺:江戸三田徳玄寺 福徳山妙音寺」

と2つのお寺が書いてあります。後者の妙音寺は会津のお寺ですから、これは地元の菩提ということになります。でも、先に書いてある江戸三田の徳玄寺は?

このお寺、今でも港区の三田にあります。実は…、怖いので後で。

つまり、菩提寺からすると、金澤家の出身は江戸ということになります。
ますます旗本の線が濃厚です。江戸から、こんな離れた会津へやってくるというのは、相当なコネとか主従関係がないとあり得ません。お殿様が代わる時に、実務者(役人=武士)の入れ替えが行われたようなので、その時に江戸でスカウトされたのが金澤治左衛門成昌さんだったということです。

他の金澤家というと、信州にも有名な家系があるようですが、江戸の旗本という線だと、大先生の言うように、北条家から分かれた金澤家が有力です。

それにしても、そんな名家がご先祖様なのでしょうか?

<霊感スタート>

前にも書いたかも知れませんが、我が一族(母方)には、霊能力者がたくさんいます。その霊能力で古代の遺跡を発掘して国宝発見なんて従兄弟は、文化庁で文化財の審議官にまでなっています。詳しくは別の機会に書きますが、僕は霊感ゼロ、でも、僕の周りでは霊感ばかりで大変です。

さて、菩提寺の江戸三田徳玄寺ですが、実は、今の渡邊家のお墓のある三田荘厳寺のお隣にあります。荘厳寺は、父方の祖母が、戦後に自分で見つけて菩提寺になりました。渡邊家の本家の墓は水戸にあります。なんで三田のお寺なのかおばあちゃんに聞いたことがあったのですが、いろいろ探してココが一番良かった、とのこと。直感かよ、墓選び!

そして、金澤家の菩提寺の徳玄寺ですが、なんと、お隣にあるだけじゃなくて、宗派も山も同じです。たぶん、兄弟のお寺なんじゃないかなぁ。今度聞いてみます。

そして、こんな偶然は、大したことはないのです。

<叔父の枕元に、金澤様、立つ>

そして今朝、一族の霊能力者ナンバー3である叔父(母方末弟)から電話がかかってきて、
「健一か、お前さんが、なんていうか、パンドラの箱を開いてしまったので、俺の所に金澤様が来られてな。
ああ、お前が今回、繋いでしもうたのでな、仕方ないな。
あのな、もっと古い金澤家を調べてほしいとのことじゃ。おそらくな、1100年代くらいらしいぞ。会津へ行ったのは、おそらく分家の分家くらいらしいが、本家筋がな、ちゃんと調べてくれとな、そう仰っているぞ」

そう、会津の大先生の言うことと、叔父の枕元の話が一致しています。
ということで、さらに調べる運びとなりましたとさ!

霊感に導かれて、会津から江戸へ(3)

<古文書が読めない…>

20ページもの古文書を前に、途方に暮れていると、目の前の席に座っていた初老のおじさんを目が合う!
「こんにちは! ご先祖様の系譜を調べに来たんです」
と、
「どれどれ」
と、古文書を手にとって音読開始!
えええ! 読めるんですか!
「これは簡単な方だよ」
えええ、大先生だ! ラッキーなこともあるものですね。

ということで、分析開始。

<出身地不詳:だが武士の身分>

さて、目録の「安永9年に召し抱えられた時の記録」には、出身地も本姓も不詳とあります。つまり、会津生まれではなく、財政再建が急務の会津藩にどこからか雇われた。
大先生によると、この時代に、外から来て武士の身分で登用される場合、江戸や殿様の出身地の旗本(いわゆる殿様と呼ばれる身分)の次男三男坊というのが定番だそうです。

なるほど、確かに身元が怪しい人間が武士として雇われる訳がないですね。しかも、会津藩は、徳川3代将軍の実弟と認められた親藩大名です。相当な家柄でないと登用されないわけですよ。

「会津藩に雇われる、外からの武士階級ってのはね、旗本の子息っていうのが定番でね」

なるほど、大先生曰く、金澤という名字は少なくはないが、旗本出身の金澤に絞ると、それほど多くないんだって。

「金澤さんか、これはね、「かなざわ」と読むか「かねざわ」と読むかで、歴史が違うんだよ!」
えええ、そうなの?
「確か、旗本で金澤っていうと、今の横浜の金沢八景の金澤家くらいじゃなかったかなぁ」

えええ、なんでそんなに詳しいの?

「ぼくはね、中世が専門でね、その時代だとなんとなく分かるんだよ」

そこで、日本の氏の本を探し始める。すると、
「江馬小四郎義時が〜」
と、大先生、ここまで読んで、
「あ、これは北条義時のことね。その息子の五郎実泰が〜〜」
と、現在の金沢文庫の基礎を作った金澤家の興りを解説。
つまり、今の横浜市金沢区に、実泰が武蔵国の国守になって金澤郷を作ったのが始まり。この家は北条氏の親戚なので、有力御家人(旗本)となり、うんぬんかんぬん。

あらあら、僕はニコニコしているだけで、西暦1100年くらいまで遡っちゃった!

さて、この金澤家が、ぼくの先祖なのか? それは、我が一族(母方)の霊感によって補完される。

(つづく)

 

霊感に導かれて、会津から江戸へ2

<2日目は台風の中、図書館で霊感な出会い>

図書館へ行きなさい、というのが初日に印象的だった言葉です。
ですから、ホテルにチェックインしたときに朝食は何時にしましょうか、と聞かれて、
「図書館は何時に開きますか?」
と返す。
フロントマンが調べてくれて9時会館。
「では、7時に朝食を」

ということで、初日の夜は劇的に美味しい夕飯バイキングと温泉でのんびり。

2日目の朝、台風が酷くて、あちこちが洪水だそうです。
でも、会津若松は普通の雨って感じ。

図書館はホテルから10分ほどで、ラッキーなことに駐車場は地下。雨にも濡れずに館内へ。

<司書の若いお嬢様が、あっという間に見つけてくれた>

さて、図書館へ着いて受付で、
「ご先祖様を見つけに来ました」
というと、土地柄だけあって、またか、という顔。
「事前に調査依頼は?」
へー、そんなことが出来たんだ。
「いいえ、でも、姓名も役職も分かります」
と告げると、専門の司書さんを紹介してくれた。そらく20代の綺麗な女性。
「金澤定吉という名前だそうです。明治維新の時には普請方だと聞いています」
お嬢ちゃん、それをメモして、書棚へ一直線。武家の名簿目録ってのがあって、
「金澤家って、たしか一軒しかなかったと思います」
え? なんでそんなことまで知っているの? すげぇ。

目録を開くと、確かに一軒しかありません。
「金澤治左衛門成昌」
これが会津藩に召し抱えられた一番最初の金澤家の人。安永9年6月(1780年)だそうです。時代は第5代藩主容頌さまが藩主となったころ。先代までの財政混乱と飢饉で、会津藩は崩壊の危機に、この殿様になり、名家老:田中玄宰を登用して政治改革!
不正役人を首にしたり、敏腕役人を各農村へ送ったり、藩校を作ったり、朝鮮人参を作って売ったりと、あっという間に財政再建! この一番面白そうな時代に、我がご先祖様は会津藩に仕えることになったようです。殿様と家老の名コンビで今の会津藩の反映の基礎を作ったわけです。
その時代に雇われたのが金澤家だったのです。

司書のお嬢様が持ってきてくれた【諸士系譜目録】から分かるのは、ここまで。
これをコピーしていると、お嬢様が、さらにぶ厚い資料を持ってきてくれた。
それは、先ほどの目録の原本で、古文書です。筆のニョロニョロ書き! しかも、我が金澤家のページは長い! 20ページも続いている!

 途方に暮れて、コピーを見つめる僕、すると思わぬ展開が!

(つづく)

 

霊感に導かれて、会津若松から江戸へ

先週は、ぼくの父方のご先祖様の系譜を辿るために、福島県の会津若松へ行ってきました。
親戚(宝生家)が調べてくれた家系図によると、本名の渡邊家は、元は会津藩の武士。正しくは、本当の姓は「金澤」です。

戊辰戦争の時に、鶴ヶ城(会津若松・会津藩)で戦い、負傷して伊達藩を目指して宮城へ。そこで農家の渡邊家に助けられて、その家の娘を連れて北上。参戦して北海道函館(箱館)五稜郭で終戦。そのまま姓を渡邊として本日に至っています。

ということで、明治維新以降は家系図もありはっきりしています。
でも、幕末以前の系譜が分からないので、会津藩の資料を探しに行ったということです。

<鶴ヶ城でボランティアガイドさんに詳しく教えてもらう>

まず、1日目は午後に会津入りして、そのまま鶴ヶ城へ。台風の雨です。
鶴ヶ城に着くと、無料のボランティアガイドさんが居て、お城の説明をしてくれます。ぐるっと城内を巡って、建築方法や戦争の時の話などをしてくださいました。
僕が会津の武士の家系だと最初に伝えていたので、ガイドさんも気合い十分!
「お時間ありますか?」
というので、「暇です!」と答えると、会津における武家の地位や役割など、習俗に関する説明も加わり、なるほど、の連続。

通常30分の説明が、1時間半ほどに。
「家系のことでしたら、図書館に行けば分かるはずです。それからお墓は**にあるので行ってみてください」
とのこと。お墓って、ご先祖様は死んでいないですけどねぇ。
「死んでいない人のお墓もあるんです」
へー、混乱していたからなぁ。

(つづく)

スーパー熟読術

熟読術

ちょっと自慢をすると、熟読が得意です。
逆に速読は苦手です(ただし、技術書は速読。なぜなら、理解が要らないから)。

今週は、道教・密教・チベット仏教と読み進んで、全部で専門書を9冊読みました。
しかも、熟読です。あ、熟読なのに速いですね。速読っぽいですね。

いえいえ、ちょっと自閉症っぽいところがあって、一日に8時間くらい根を詰めて読んでいるだけです。

さて、熟読はどうやるのか。
僕が読み終えた本は、赤青緑の色鉛筆で引いた線が一杯、さらに小さな名刺大の付箋がペタペタ。これが技です。

同じような古代中国思想などを勉強をしている人に僕の本を見せると、みんなビックリ。
しかも、ちゃんと読み込んでいるので、質問されてもちゃんと答えられる。

ということで、スーパー熟読術の本を書くことにします。

真言密教の勉強もはじめたよ

自分の易経が当たりすぎて怖いという桜風さんです。

易経は古代中国に端を発する古いものです。占いに使われていますが、お経的な意味も有って、64首の漢詩から出来ています。その64首というのは、人間の人生の局面を64段階に分けて表現しているというものです。

その分け方というのは陰と陽で分類しています。この陰と陽は陰陽道という古代中国の思想に基づいています。

真言密教は、ヒンズー教の神様を取り入れている。
もちろん、密教は仏教の一つ。インドが仏教からヒンズー教に変わっていく過程で融合したものが日本へ伝わってきている。
そして中国を経由するときに陰陽道も入ってくるので、こりゃ複雑!

いずれにせよ、極楽浄土へ近付くための方法論だったり考え方なので、仏教でもヒンズーでも陰陽道でも、まぁ、ベクトルは同じ向きなので一緒になれるんですな。

と、そこに邪教と言われる「立川流」が歴史に見え隠れする。
立川流は性交を秘術として即身成仏したのと同じ境地に至るというスキャンダラスな宗派。でも、根本は真言密教だ。

平安時代の白河上皇の院政時代に端を発するのだが、開祖とされる仁寛は、当時の真言密教のエリート僧。兄貴が当時のナンバーワン僧侶の勝覚で、その威光もあって、天皇に仕え守る地位に抜擢されている。

ところが仁寛さん、政権争いに負けて、白河上皇に呪いを掛けた罪で京都から流刑で、伊豆へ飛ばされちゃう!

ちなみに「呪い」は、当時の最先端科学! 密教は様々な呪文を使って政敵を呪い殺したり、逆に呪詛返しで守ったりというのが役目。
つまり、真言密教ってのは時の政権を守るために、陰陽師よりも強力な妖術師軍団(失敬)なんだな。平安の初めの頃は陰陽師が鬼退治(つまり自然のコントロール)をメインに天文学や気象学を駆使して、それに基づいた呪詛を使っていた。時代が混乱期へ近付くにしたがって、その呪詛がエスカレート。陰陽師が使う式神よりも強い呪詛が必要になり、外国からその技術を輸入。それが密教。インド(ヒンズー)の強力な神々を連れてきたというわけです。

その最高峰の仁寛さん、呪詛をかけた罪で断罪!
伊豆に流されて3ヶ月じ自殺しちゃう。
その短い期間に、現在の立川辺りに居たとされる修験道が仁寛さんに弟子入りして、真言密教の教えを受けたのが立川流の源流だ。

さて、立川流が性交秘術の邪教ということなんだけど、どういうことか?
まだ、僕も勉強中なんだけど、基本は、密教の神様の愛染明王。ここに陰陽道の思想が色濃くなって、極楽浄土は陰と陽の合一にある。陰は女性、陽は男性で、性交こそが何の修業も必要なく成仏できる道だと考えた。

実は陰陽道は、世界の成り立ちはずべて陰と陽でバランスが取れ、その2つが合一する時に命が始まり、さまざまな未来が作られるという思想。

ところが真言密教のエリートさんたちとしては、そう簡単に成仏できたんじゃ、自分の人生(修業)が否定されるのと同じ。立川流は徹底的に弾圧されることになる。

というか、弾圧された仁寛さん、弾圧される思想としての愛染明王を主役にする宗派、この2つは重なり合う運命だったんでしょうな。

エリート中のエリートの仁寛さんは、愛染明王の宗派についてずっと研究してきていたらしく、そういった勉強会にも多々参加していたらしい。流刑の後、エリートのたがが外れたら、愛染明王についてはフランクに話せるようになったんじゃないかな。

それでもエリートの性、地位を失えば死ぬしかない、と思っちゃったんだな。

というのが、本日までの勉強のまとめ。

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